東京大学大学院教育学研究科2011年度集中講義「差別と攻撃の再生産構造をかんがえる」第1日(その1)

第1日(2011/07/28 1-2限)
ましこ・ひでのり(中京大学…)

■自己紹介■
〔ブログ「ましこ・ひでのり おぼえがき」2011/07/08 〕
http://sociologio.at.webry.info/201107/article_32.html


●「……社会言語学・知識社会学の立場から、国語(特に国語国字問題)・日本史(特に沖縄の歴史)のあり方について批判を行っている……」(ウィキペディア「ましこ・ひでのり」)
←『イデオロギーとしての「日本」』などのイメージがつよいのか国語・日本史とは別個のテーマでかいた著書がほとんど無視された記述(笑)。現在の問題関心とズレがおおきいため、補足しますと、

・大学院時代:教育社会学のパラダイムを吸収しようとしつつ、社会言語学のモデルや沖縄学ほか地域史・東アジア史などの知見を「想像の共同体」論などと統合しつつ教育社会学のパラダイム変動をはかろうとこころみた。

・日本学術振興会特別研究員時代:博士論文の準備のためフィールドワークをこころみるが、搾取的調査になりそうな予感がわきあがり挫折。修士論文からの教育史的展開を放棄、博論の構想が破綻。漢字イデオロギー批判を本格的に開始。のちの博士論文の土台、および『社会言語学』誌上で同人たちと展開する障害学的情報保障論の助走段階となる。

・非常勤(浪人)時代:社会学・教育学・言語学など、雑多な分野の科目を「出前」。家庭教師等でくいつなぎながら、6年間の浪人生活。多数の公募に失敗。一応課程博士のわくないで提出、2年間の審査のすえ、ギリギリ合格。最初の著書の原型となる(→『イデオロギーとしての「日本」』)。『ことばと社会』(多言語社会研究会)の編集委員に。

・2000年以降:常勤ポスト(中京大教養部)に着任。スポーツ系学部をふくめた全学共通教育にたずさわったため、着任以前から着手していた社会学テキストに、身体論や競争原理などを素材にもりこむ(『たたかいの社会学』)。年報『社会言語学』(http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2816/)の同人として活動開始。
 大学院時代・浪人時代の学会誌掲載論文や着任直後の研究所紀要、『図書新聞』連載などをまとめて、言語論・教育論系の研究書を刊行(『日本人という自画像』『ことばの政治社会学』)。
 2000年代中盤からは、社会学や民族論の入門書を刊行したり(『あたらしい自画像』『幻想としての人種/民族/国民』)、環境破壊や沖縄差別などを論じた研究書(『知の政治経済学』)を刊行。また言語政策周辺の共著がふえる。

……



■問題関心の共有のために発題■

【論点群1:教育の論理と暴力性との親和性をかんがえる】

 近現代の教育現象において、すくなくとも公教育は、パターナリズムから就学義務をうたって学習権を保障すると称してきた。しかし、それは同時に、国民化であったり、健常者文化への統合であったり(ex.ろう者に口話主義=音声日本語習得をしい、手話を禁じていた過去の聾学校)、既存の性別役割分業を相対化しないジェンダー規範への編入を反復・正当化する「国家のイデオロギー装置」ではなかったか?(→ましこ『ことばの政治社会学』)

 かなりの程度、反社会的であったり、奇矯な価値観にそった一族、ないしセクトの世界観などから、より一般性のある価値観への招待(たとえば「創造論」系の世界観から、ネオダーウィニズムを許容する生物観などへの導入)には、かなりの正当性がみとめられるが、たとえば、日の丸・君が代を「国旗・国歌だから尊重するのはあたりまえで、学校の儀式では教員の指導に服するのは当然」といった生徒指導が正当化されるのは、どのような合理的根拠によってか?

 あるいは、かりに過去ではあるにせよ、「方言矯正」といった言語習慣への積極的介入をふくめて、地域語や民族語による生活実態を無視した同化主義がなぜまかりとおってきたのか?(ex.「沖縄県」「北海道」ほかでの近代教育史→ましこ『イデオロギーとしての「日本」』)

 一方、周囲の支配的な言語規範があるにもかかわらず、統合教育としての就学義務を課さずに放置するといった、一貫性をかき、また学習権を否定するような教育法制や運用がまかりとおってきたのか?(ex.過去の朝鮮系日本人児童や、現在の日系ブラジル人など新来外国人児童)

 これら、当局による恣意的な介入や無視・放置など、一貫性をかいているばかりでなく教育理念上、なにを目標としているのか不可解な政策・運用がおおいのではないか?

 そもそも、教授行為自体がかならずしも善意からではないこと、しばしば過去にうけた被害者体験を被教授者に追体験させること、いいかえれば復讐すべき攻撃者の不在を、あらたな被害者への暴力をもって実行するという、陰惨にして卑劣な防衛機制を指摘したのが、関曠野(1985)であった。教師の再生産過程としての教育過程を「ドラキュラ物語的な悪循環」と、関が評した関係性は、精神的暴力の連鎖に着目したものである。教授行為が愛情の一形態のばあいも無論多数あるわけだが、残酷というほかない、しばしばサディスティックとしかみえない、「指導」というなの暴力が横行してきたことも、あきらかな現実だろう。(→ましこ『ことばの政治社会学』)

 また、生徒指導というなの身体管理も、程度の差はあれども、刑務所等の収容施設の権力行使と同質な面を指摘できるであろう。「生徒らしい服装」「服装の乱れは心の乱れ」等の定番化した表現・論理は、高校野球などで当然視されていた坊主狩りとか、スカートのながさ規制や、持ち物検査など、生徒への収容所的(ex.刑務所)介入であり、すべて「教育的配慮」として正当化されてきたが、その合理的根拠はあやしいものが大半であった(搭乗手続時のボディチェックのような体制が必要かどうか?あるとしたら、そもそも一斉授業等が成立する基盤自体が欠落しているのではないか?)。

 またそれら「指導」は総じて、成人からみた「普通」が自明の基準・規範となった判定行為だったといえよう。成人からみれば、児童・生徒は未熟であり「標準」化された「能力」が「欠落」したものとみなされる。おおくのパフォーマンスは逸脱に位置づけられ矯正の対象になる。これは、収容施設としての刑務所で受刑者が矯正の対象になったり、傷病者や障害者がリハビリテーションの対象となるのと同質である。パターナリズムの視座から、これら「欠落」した状態が不幸な心身状態=改善の対象としてあつかわれる構図をたとえば障害学は「医療モデル」と称し、批判してきたことは周知のとおりである。ある傷病者や障害者が不幸な心身状態においこまれているとすれば、それは心身が異常な欠落状況にあるからではなく、ユニバーサルデザインやユニバーサルサポートを社会が用意できずにいる。あるいはそういった配慮の必要性に無自覚だからであるというのが、障害学がよってたつ「社会モデル」であった。「社会モデル」によれば、「障害」とは個々人の傷病者や障害者に内在する欠陥ではなく、社会が無知・無為・無策によって傷病者や障害者につきつけつづける構造的差別のことだと。

 「矯正」をパターナリズムから正当化してきた教育者や社会が、それにあたいする聖人君子でなどなかったことはいうまでもない。それだけではなく、「矯正」の方向性が、被教育者たちにとってつねに幸福へとみちびく保証がなさそうなことは、さまざまな根拠をあげて「立証」できそうである。教育者や社会がなにをもって「正常」をさだめ、また、そこにできるかぎり全員をみちびくことを理想視できた、思想的根拠とはなんだったのだろう。

 ことは、公教育などの教科教育および生徒指導にとどまらない。クラブ活動をはじめとして、正課外の諸活動を「指導」のなのもとに正当化してきたこともみのがせまい。とりわけ、「しごき」と称されてきたパワハラの実態を、愛情の一種の表現なのだというのはムリがあるというものである。そうした、あしき「上下関係=教育のなをかたった暴力」が温床となって、たとえば、生徒間でのリンチ事件がもたらしたことを無視できないのはいうまでもない。「指導」のなのものとの権力行使=心身への暴力がコピーされたらこそ「自主的」なクラブ活動等で暴力がくりかえされてきたわけだ。武道系にかぎらず、球技・陸上競技でも、生徒の体質・技量におのずと限界がある以上、それを悪用すれば、容易に暴力の正当化になりえるのに、指導者自身が無自覚で、しばしば、「ドラキュラ物語的な悪循環」をたのしんでいたものとみられる。これらは、基礎学力や集団生活への適応といった、市民生活のための「教習所」的な機能をこえた、「付加価値」部分であるだけに(準)強制的な参加などは、本来の趣旨にもとるだろうに、「主体的参加」だとか「教育的指導」といった美名のもとに、しばしば事実上の強要がおこなわれてきた。

 2012年度からは、中学校に柔道など「固有の伝統の文化である武道」とやらが教科教育の一端=必修科目として強要されるわけだから、すくなくとも現代日本における「義務教育」において、児童生徒の学習権を保証するための保護者・行政当局への義務であるといった理念が空疎であることは、あきらかだろう。すくなくとも、だれにとっても必要不可欠だろう市民的素養とあてがう公的機関であるという主張は、以上のように、さまざまな破綻を露呈させている。

 市民的素養とは別個の専門教育、たとえば大学・大学院という高等教育機関にいたっては、自己責任による主体的選択として、カリキュラム構成や指導体制が被教授者になっとくされているという論理をとるので、暴力性の隠蔽・合理化はさらにこみいったものになる。しかし、大学で、散見されるパワハラ・アカハラの実態は、被害者にふかいきずをあたえ、しばしば半生をだいなしにしかねない暴力性を発揮してきたことも否定できまい。ある高名な教育社会学者は、大学院進学者をまえにした研究室でのあいさつで、少々皮肉めいたえみをたたえながら、「ご入院おめでとうございます」とのべたが、これは、高学歴ワーキングプアなどの惨状を予見した「修道院」生活志願者への自虐的ユーモアとしてだけ理解するのは、もったいないのではないか?ホラー映画さがならの「修道院へようこそ」という、すごみをおびた宣告を、この教師は無自覚にくちにしていた可能性が否定できない。

 さらには、これら公教育やその延長線上にある高等教育は、いわゆる社会教育のような完全に自発的な学習過程と異質な本質ゆえに、そしてその「善意」が基本的にうたがわれないだけに、そのイデオロギー装置としての象徴的機能は、学校教育に限定しない方がよいようにおもえる。たとえば、相撲部屋の集団リンチ事件海上自衛隊の特殊部隊「特別警備隊」の「訓練」過程で発生した1対15人の「格闘訓練」などの集団暴行疑惑などは、すべて「教育」の論理のもと共犯者たちの行動を合理化したものとおもわれる。かりに「社会学的密室」(ましこ)における単なるイジメのたぐいであろうと、「稽古」「訓練」のなのもとに、集団暴行が行使され死にいたらしめたことは、動員された力士や隊員たち個々人の恐怖感(「したがわなければ、今度は自分がやられるかも」というイジメ空間につきまとう不安)だけでは、かたづけられまい*。これらの物理的暴力は、公教育におけるクラブ活動での「シゴキ」と直接的に隣接するばかりでなく、大学院の研究室等で散見される「指導」などとも心理面では通底しているとかんがえられる。また、大学院生への無自覚らしい精神的暴力と同形の「指導」が、企業や官庁など、公教育以外のさまざまな組織における上下関係においてもくりかえされているだろう
*先日、乱射事件によって露呈した韓国軍海兵隊内部における陰湿なイジメの実態とか、アメリカ海兵隊内での暴力的な「教育」を告発した「フルメタルジャケット」(スタンリー・キューブリックほか1987年)などがえがく閉鎖空間は、軍関係者がひたかくしにしてきた。幕僚や官僚たちにとっては、現体制護持(内乱防止+国防)こそ最重要課題なのであって、兵士が毎年自殺したりする「犠牲」は、「最大多数の最大幸福」を維持するための「必要悪」なのだろう。

 ところで、近年身体的・言語的な表現としてのセクハラとは別個に、「環境セクハラ」という概念が普及しつつある。たとえば、女性が(好意をもたない男性から)性的対象として矮小化されることで好奇の視線にさらされるような差別状況=精神的攻撃とは別個にたとえば「ヌードポスター」を職場のかべにはられる、といった状況における被害感覚などである。これにならうなら、公教育には、環境パワハラ、ないし環境アカハラというべき暴力性がつねに伏在しているのではないか?教育者たちが主観的善意、あるいは無自覚に放置している作為・不作為が、環境として「パワハラ/アカハラ」として機能しているといった構図である(ex.制服・頭髪等の規制)。
 たとえば内田(2010)は、公教育にまつわるリスク管理が、構造的に恣意的であり、統計的にはかなりひくいはずの不審者リスクには過敏で、事件に衝動的対応をくりかえしてきたのに、統計的にはっきりと危険性が指摘されてきたはずの柔道部の事故が矮小化され2012年度から正課として中学男女に、剣道などとともに選択必修とされることを問題視している。前述した「我が国固有の伝統の文化」といったスローガンそのものが、そもそも武道の成立経緯の「伝統の創造」的本質を直視しない共同幻想にすぎない。急速な武道ばなれをまえに、柔道人口・剣道人口などを再浮上させようという方針だろうが、イデオロギッシュ(ナショナリスティック)であるばかりでなく、リスク回避できるだけの練習場環境や指導者確保が困難である以上、小学校への英語導入以上に実害がおおきいだろう。いくら「ダンス」や「剣道」等、別の選択肢が用意されているとはいえ、死亡事故をはじめとする重大事件がつきまとう日本の柔道教育は、巨大なハイリスク空間といえる。クラブ活動でさえも、いたましい事故がくりかえされてきたのに、この期におよんで、授業であてがうとは、危険きわまりないことは、内田らが批判するとおりであろう。これらの「必修化」は、エホバの証人のような宗教的マイノリティに対してのみならず、おためごかしの「環境パワハラ」とみることができるのではないか?現場の教員などのためらいはおくとしても、不本意な身体運動を課される生徒や、それを容認させられる保護者にとっては、強制をともなった「パワハラ」にほかなるまい。

 いや、そもそも体育で当然視されてきた、球技・陸上・器械体操・水泳・ダンス等は、ほとんどすべて競技ないしパフォーマンスのマネごとにすぎず、公教育としての合理的目的を提示した「体育」となりえているか、はなはだ疑問だろう(ましこ2005)。児童・生徒・大学生の身体を育成するという美名がかたられてきたが(障害者スポーツさえ、当然視されてきた)、これらも、一部の児童・生徒・大学生にとっては、環境パワハラである可能性がたかい(学校体育からの解放理論・運動のひとつとして、「トロプスTROPS)」)。大学のばあい、選択肢がたくさんあるとか、単位認定制度という構造をなっとくした自己責任の産物であるといった合理化は可能でも、小中高校での必修化された体育の大半が、競技ないしパフォーマンスのマネごとだったという実態をみたとき、「体育」という教科を事実上拒否できない生徒・保護者にとっては、環境パワハラの典型だろう。そして、ことが体育などにとどまらず、漢字文化の強要や英語学習の自明視など、さまざまな要素・領域においって、すべてが不可欠の市民的素養といいはってきた文部当局や学校現場のカリキュラム思想自体の正当性をとうものであることは、あきらかだ。エホバの証人のような宗教的マイノリティや在日コリアンや琉球列島住民・アイヌ系住民などなど民族的少数派にかぎらず、自明視されてきた教科教育の内容自体が「環境パワハラ」でないかが、検討を要するのである。

 ちなみに、内田は同時に、有害な空気をすわされたときの環境リスクと学校事故を対比させて異質性を強調しているが、どうだろう?教室のまどを開放しても放射線リスクはかわらないと主張する町当局と、放射線リスクを懸念してエアコン導入をもとめる保護者とのあいだで対立がふかまっているというケース(「学校のエアコン導入めぐり町と保護者が対立福島」河北新報7月15日)がある以上、環境リスクのアセスメントとマネージメントは、やはり社会構築主義的な産物というほかない。職員室等にはエアコンが導入されているとか、小学校を統合したあとは教室にも導入するといった当局の矛盾した見解は、保護者のがわには、すべて「環境パワハラ」の証拠にうつるはずである。外部被曝・内部被曝のリスクを過小評価し、財政を優先する町当局の態度は、親子で登校拒否という判断にふみきらないかぎり、回避できないリスクなのであり、生存権の侵害と同時に学習権の侵害も意味するだろう。登校拒否は将来的に就労の際のハンディになるリスクを当然ともなっており(日系ブラジル人児童の不就学問題などを想起)、「収容所」の拒否は、かなりのハイリスク選択であることはあきらかで、当局の意向に抵抗するのは困難だ。

 ちなみに、教育者の「無自覚」性=善意性については、慎重に分析する必要がありそうだ。しかし、すくなくとも陰惨な事件の大半で、相当の自覚性があったとうたがわれる。というより、そうでないと、つじつまがあわない。それは、おおくの事例が「社会学的密室」(ましこ)でくりかえされてきたという現実からである。かりに、かれら「加害者」が無自覚であるなら、「密室」以外での事例が大量に露見してきたはずではないか?

 「密室」での「犯行」であるがゆえに、露呈するのは、被害者が死亡や自殺未遂といった深刻な状態で発見されるとか、密告のかたちで「自殺」の真相がリークされてきたのだと推定される。かれら「加害者」が全員「善意」で「無自覚」であるなら、「密室」でこそこそ「犯行」をくりかえすのではなく、公然と「指導」をおこない、批判されようと自信をもって自己弁護=正当化をはかっただろうとおもわれるのである。この点で、公然と正当化をはかったかずすくない事例としてあげられるのは、「戸塚ヨットスクール事件」(戸塚宏もと受刑者ほか)などがあげられるぐらいではないか*。この推定が妥当であるなら、教育のなをかたった暴力の大半は、「密室」状態をさけた「可視化」「透明化」によって、解消されるという楽観論が成立する。もちろん、大学院やアスリート、あるいは劇団・楽団などの養成過程は、「企業秘密」をふくめて「秘儀性」をともない、「可視化」「透明化」にはおのずと構造的限界があるのも事実であるが、すくなくとも幼稚園から大学の学部教育までの「暴力」は解消されるとおもわれる。
*この事例のばあいは、ドキュメンタリー映画の公開こそならなかったが、その原作となるノンフィクション小説『スパルタの海』があることをみても、当事者に「犯意」がかけらもなかったことが、みととれる。

 長幼序列ないし職位序列を前提した命令系統は、しばしば「指導」のなのもとの「懲戒」行為という形式で暴力を正当化してきた。それらは、いわゆる「パワハラ」と総称される権力-暴力構造として分類・理解できるだろう。そしてそれらは、おもには、労働現場での反復される暴力行使として、(いまだ不充分きわまりないとはいえ)さまざまな対策がねられてきた。その意味では、大学・研究所での研究職や大学院生・学部生への暴力行使としての「アカハラ」よりも一般的で射程のひろい概念といえる ※。
※ さらにいえば、長幼序列ないし職位序列に反するかたちでの、逆転した暴力行使も普遍的なのであり、授業崩壊や校内暴力、家庭内暴力などをふくめた、「モラルハラスメント」+物理的暴力という把握が、教育的空間では、一層一般的だろう。

 しかし、年少者や下位層は普通「教育」のなをかりた復讐・反逆をおこなうことはなく、以上のような問題群とは、一線を画すといえよう。

 かくして、教育という普遍的な現象、なかでも公教育や訓練機関や広義の家庭教育のなかに内在するとおもわれる暴力的側面=本質をかんがえたとき、たとえば「いかにして公教育を市場のあらなみや政治介入から解放するか?」といった問題設定=改革の模索自体が、根本的にまちがっているのではないか?なぜなら、ことの本質は、教育システムをとりまく政治経済的外部要因にあるのではなく、教育という過程・文化自体に内在するのだから。たとえば、学校で無数にくりかえされる、モラルハラスメントや物理的イジメは新自由主義的体制の産物ではなくて、閉鎖的な収容所空間が必然的にもたらす構造的矛盾ではないだろうか?

 もちろん、長谷川&長谷川(2000)のように、戦後日本において20代前半男性の殺人率が高度経済成長期に急減していった要因のひとつに、高学歴化で大学等に在籍するという社会的身分があてがわれたこと(広義の収容状態)をあげている点はみのがせないが。【つづく】




【関連記事】
●日本柔道における死亡ほか重大事故(2012年度武道・ダンス必修化問題)
http://sociologio.at.webry.info/201102/article_9.html

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この記事へのコメント

ましこ
2011年09月08日 09:20
宮澤康人「隠れた/三者の/無意識の/暴力的関係―〈教育関係〉論の新しい展開へ」

宮澤『〈教育関係〉の歴史人類学 タテ・ヨコ・ナナメの世代間文化の変容』(第12章)
2011年8月25日刊行 2,415円(税込価格)
ISBN978-4-7620-2203-6 C3037  A5判 272頁
http://www.gakubunsha.com/cgi-local/search.cgi?id=book&isbn=978-4-7620-2203-6
〈教育関係〉の人類史における変遷を辿りその新たなイメージを描き出す。
ヒトの生物的基盤を重視し、原始から現代まで人間社会にあまねく存在する世代継承関係の文化の在り方を、身体・エロス性、死者・正者関係、ホモ・エドゥカンス、教育的無意識など新しい概念を含む多様な観点から考察。教育への別様の発想を刺激する物語。

【目次】
http://www.gakubunsha.com/cgi-local/MOKUJI/978-4-7620-2203-6.html

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