アフガニスタン紛争(2001年-)- Wikipedia

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2001年

 10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。
 米国を中心とする圧倒的な軍事力によって敵対勢力は粉砕され、主たる戦闘は約2ヵ月ほどの比較的短期間で終結し、タリバン政権は消滅した。対テロ作戦の継続の為、なおも米国の陸軍と空軍の計2万人が駐留を続けた。
 米国本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機や攻撃機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の米軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。またインド洋にはフランスの空母シャルル・ド・ゴールが展開し、空爆の支援にあたった。しかし、アメリカが望んでいたオマーンからの攻撃は実現しなかった。一方で、イランは水面下でNATOに協力し、軍用機の領空通過を認めた上で、拠点情報などを提供し、負傷兵をイラン国内で治療するなどした。…
米国は当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表していたが、誤爆などにより住宅や民間施設も破壊され、多数の民間人の命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公式には明らかになっていない[19]
 戦争から逃れるために多くの難民が発生して、その多くが周辺国へと向かい、とりわけパキスタンに流入して問題になった。パキスタン政府は戦争で米国支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民や反米感情の強いアラブ諸国民衆の反感を買った。

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2009年
 1月に就任したアメリカのバラク・オバマ大統領はアフガニスタン重視の姿勢を示しており、同年2月17日、同国への17000人規模の米軍増派を発表した。具体的な内訳としては海兵隊遠征旅団が8000人、陸軍・装甲車部隊が4000人、人道支援部隊が5000人規模となっている。同年2月の段階で米軍の駐留規模は38000人余で、これに増援部隊を加え最終的な規模は6万人規模になると見られている。同年9月現在、同国には67000人規模の(ISAF参加含む)米軍が駐留している。
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 9月4日、ドイツ部隊(アフガン・クンドゥズ洲駐留)がタリバンに燃料輸送車を奪われたことに対して空爆した。その結果、69人のタリバン兵と30人の民間人が死亡した。メルケル首相は12月1日空爆について謝罪し、同3日グッテンベルク国防相は民間人を殺傷した空爆は不適切だったことを認めた。
 しかしながら、09年の同戦争は例年にも増して、ターリバーンの攻勢が過酷を極め、9月末日までの米兵の死者は220人を超え(08年の米兵死者は150人)、米兵の犠牲は過去最悪のペースで戦況の悪化が進んでいる。こうした状況を受け、マックリスタル司令官は最低で4万人の兵力増強をオバマ大統領に直訴。仮に兵力増強を逡巡すれば、同戦争に対する敗北は必定との旨を記した書簡を同年10月1日、ホワイトハウスに送付した[24]。アフガンへの兵力増強を巡っては、軍部や共和党内の大勢が賛意を示す一方、ジョー・バイデン副大統領ら民主党内の左派は激しくこの案に反発している。一方、既に9000人の兵力を投入している英国のゴードン・ブラウン首相は、10月14日の下院での審議で、500人の兵力増強を発表した。
 12月1日、オバマ米大統領は、米ニューヨーク州の陸軍士官学校で演説をした。その演説で、大統領は3万人規模の米軍を来夏までに追加派兵し、再来年(2011年7月)にはアフガン駐留米軍の削減を開始するなどのアフガニスタン新戦略を明らかにした。この増派でアフガン駐留米軍は10万人規模に達し、それに伴う追加戦費は300億ドルといわれている。この戦略発表の裏には、米兵の死者の増加[25]、金融・経済危機による巨額の財政赤字の下での戦費負担も深刻さを増しており、兵士の精神的ストレス[26]も大きな問題となり、大統領の支持率が50%を割り込んでいる[27]ことなどが考えられる。



2011年
 5月2日(米国現地時間5月1日)、CNNが「アメリカ軍の特殊部隊がイスラマバード郊外のアボタバードにある邸宅でビン=ラーディンを殺害した」と報道した…。CNNの報道直後にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、アメリカ当局がビン=ラーディンとされる遺体を回収し、DNA鑑定の結果遺体がビン=ラーディンであることが確認されたとの声明を発表した…。

復興
 ターリバーン政権崩壊後は、ボン合意によって定められた国連アフガニスタン支援ミッションによって政治と経済の立て直しが行われ、アフガニスタン・イスラム国の再建後はハーミド・カルザーイ大統領率いる政府も協力して復興が進められている。当初はターリバーン残党を含む武装勢力の攻勢も弱く、社会基盤の整備が進んでいた。カルザーイの大統領就任以前は、タリバンから離脱した地方軍閥が勢力を伸ばしていたが、カルザーイは民意を盾にして 軍閥の力を弱めて来たため、軍閥はほぼ大統領の勢力下に置かれているといわれていた。しかし2005年以降は南部でターリバーン等の武装勢力の攻撃が増え、治安が悪化している。
 また、国連以外にも国境無き医師団などのNGOやNPOが現地に入り、復興の手助けをしている。しかし、ターリバーン等はこうした外国人を狙った誘拐・殺人事件をしばしば起こしている。2007年には韓国人23人が拉致され、うち2人が殺害される事件(2007年ターリバーン韓国人拉致事件)が起こり、2008年にはNPOペシャワール会の日本人スタッフがターリバーンに誘拐・殺害される事件が起きた(アフガニスタン日本人拉致事件)。
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この紛争の捉え方

 この戦いについてさまざまな見方や意見がある。形式的には、アフガニスタン内での内戦の北部同盟支援という形をとっているが、アメリカ同時多発テロ事件に対する報復テロであって戦争ではないとする者もいる。それとは逆に、米国側が米国内での同時多発テロ事件を「これは戦争だ」と定義づけ、ターリバーン側も「まだ戦争は終わっていない」と声明を出したことから、双方で宣戦布告無き戦争という合意がなされているという見方もある。
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年表

2001年
9月11日 アメリカ同時多発テロ事件で多数の死者が発生。
タジキスタンにCIA要員110名が潜入し、北部同盟と接触して活動を開始した[要出典]。
9月12日 国際連合安全保障理事会決議1368採択。NATOが北大西洋条約に基づく集団自衛権の発動を声明。
9月14日 オーストラリア、太平洋安全保障条約に基づく集団自衛権の発動を決定。
9月24日 プーチン露大統領、テロ事件に関する対米支援5項目を発表。
9月28日 国際連合安全保障理事会決議1373採択。
10月 空母「キティホーク」が横須賀海軍施設から北アラビア海に展開。
10月2日 NATOが集団自衛権を発動。
10月6日 B-2 爆撃機の第一陣が米本土を離陸して、地球半周の飛行を開始した。
10月7日 ブッシュ米大統領がテレビ演説でアフガニスタンへの武力行使を発表し、米軍がターリバーン支配地域へ空爆を開始した。B-2・B-52など戦略爆撃機や空母からの攻撃機、艦艇からの巡航ミサイルなど多数の兵器が使用された。
10月19日 米軍特殊部隊が到着した。
11月 北部同盟軍が攻勢を開始。
ドイツのボン近郊で、アフガニスタン諸勢力と各国による新政府作りに対する協議が始まる。
11月9日 北部同盟軍が北部のマザーリシャリフを制圧。日本の海上自衛隊もインド洋に派遣された[36]。
11月12日 北部同盟軍がヘラートを制圧。
11月13日 北部同盟軍が首都のカーブルを制圧した。ターリバーンは南へ敗走。
11月14日 国際連合安全保障理事会決議1378採択
11月16日 ターリバーンの拠点、クンドゥズとカンダハールで大攻防戦が行なわれた。
11月26日 北部同盟軍がクンドゥズを制圧した。タリバンの拠点はカンダハールのみに限定された。
12月5日 ボン合意
12月6日 国際連合安全保障理事会決議1383においてボン合意を承認
12月7日 北部同盟軍がターリバーンの重要拠点カンダハールを制圧した。アフガニスタン国内のターリバーンの大部分は消滅し、戦争終結と見られた。残党掃討のための空爆や進攻は継続された。
12月20日 国際連合安全保障理事会決議1386により、国際治安支援部隊 (ISAF)が成立
12月22日 「アフガニスタン暫定行政機構」が発足。ハーミド・カルザイが議長に就任。




クローズアップ2011:アフガン泥沼化 政府統治、「点」に縮小

 ◇「この10年何だったんだ」


 米国主導の「対テロ戦争」の口火となったアフガニスタン戦争が始まって7日で10年。米軍の攻撃で政権を投げ出した旧支配勢力タリバンは今や勢力を盛り返し、「戦争前」の状況に戻りつつある。こうした状況下でオバマ米政権は14年の治安権限完全移譲へ向け、7月に米軍撤収を開始した。カルザイ政権が狙うタリバンとの「和解」は進まず、民族対立への懸念も高まり、「この10年戦争は何だったんだ」との声が人々の間に広がっていた。【カブール杉尾直哉】

 中部マイダンワルダック州北部の山岳地帯にあるダシャデショール村。今月2日、道路敷設の起工式が開かれた。電気も水道もないこの地方での初めてのインフラ整備だ。

 主要都市など「点」でしか統治できていないアフガン政府の現状を象徴するかのように、首都からヘリで現地に降り立ったハリリ副大統領は、村人1000人を前に「国は着実に復興している。二度と暗黒時代に戻らない」とアピールした。

 だが、隣接のバーミヤン州から参加したハビバ知事は、「新しい道路はタリバンが支配する地域を通り、誘拐や強盗の危険がある。治安状況が改善されなければ、我々は孤立する」と訴えた。

 道路は、カブールと、国内で最も治安がよいといわれるバーミヤン州をつなぐ。バーミヤン州は7月にアフガン駐留の北大西洋条約機構(NATO)軍が治安権限を移譲した。だが、「安全」とされてきた地域はますます縮小している。

 北部マザリシャリフも数キロ郊外に出れば、タリバン支配下の村が広がる。

 女性社会活動家のマラライ・ジョヤ元下院議員は、「カルザイ大統領は一国の大統領ではなく、『カブール市長』になってしまった。これが、世界最強の米軍が10年にわたって駐留した結果だ」と言い切った。

 ◇遠のく民族和解 ラバニ氏暗殺が追い打ち

 首都カブールでは今、9月20日のタリバンによる自爆攻撃で暗殺されたラバニ元大統領の写真や横断幕があちこちに掲げられている。タリバンとの和解を目指すカルザイ大統領が昨年設置した「高等和平評議会」の議長。殺害現場の自宅前には、「イスラム教徒を苦しめる連中には、厳しい態度を取らねばならない」と記された横断幕が掲げられた。「復讐(ふくしゅう)」を誓う支持者の強い意思表明だ。

 暗殺直後、かつてタリバンと激しい戦闘を展開した軍閥集団「北部同盟」出身者、とりわけラバニ氏と同じタジク人の間で、タリバンを構成するパシュトゥン人への反感も高まり、パシュトゥン人のカルザイ大統領非難に発展した。

 和平評議会メンバーのファゼル・アイマク下院議員(59)によると、タリバンの最高指導者オマル師は、事件の約4カ月前にラバニ氏に「和解のための使者」を送り、ラバニ氏との面会を重ねて信頼を得ていた。タリバンが本気だと判断したカルザイ政権は、交渉窓口となるタリバンの事務所を近く中東カタールに設置する計画を立て、米政府も了承していた。アイマク氏は「これで交渉のドアは閉じられた」と話す。

 事件の真相について、国内では「武装勢力を利用し、アフガン情勢に影響力を保持しようとするパキスタンが黒幕」との見方が広がった。パキスタンにとって、アフガニスタンは、敵国・インドと対峙(たいじ)する上で重要な戦略的後背地。カルザイ大統領は自身への非難や民族対立を回避する狙いも込めて、「今後の交渉相手はタリバンではなくパキスタン」と公言した。

 これは、特にタジク人の間で噴出した反パシュトゥン人感情を当面は抑えるのに成功したように見える。しかし、パキスタン外務省は「暗殺の黒幕」というアフガン側の批判を「無責任な言動だ」と対決姿勢を強める。カルザイ政権は、タリバンや民族間のあつれきに加え、隣国との対立という新たな火種を抱え込んでしまった。

 ◇日本は支援後退

 日本政府は01年の米軍によるアフガン攻撃以降、米国に次ぐ復興支援計32・2億ドルを投じ、アフガン警察の能力向上など治安権限移譲に向け環境整備を図ってきた。しかし、治安悪化で民主党政権が打ち出した「09年から5年で50億ドル」の実施は17・5億ドルにとどまっており、自衛隊の医官派遣も断念。近隣諸国での難民支援などに振り分けられる見込みで、日本の“支援撤退”を印象づけている。

 菅直人首相(当時)は昨年11月、自衛隊医官ら計約10人の派遣について、オバマ米大統領に「前向きに検討する」と伝えたが、今年5月、医官らが活動予定だった首都カブールのアフガン国軍病院で自爆テロが発生。断念につながった。民主党政権が重視する民生支援も、治安悪化で日本人職員はカブールに退避しており、地方支援は行えない状態だ。【大貫智子】

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 ■ことば

 ◇アフガニスタン戦争

 01年9月の米同時多発テロに対する米国の「報復」戦争。ブッシュ米政権は、アフガニスタンを拠点にしていた国際テロ組織アルカイダの最高指導者、ビンラディン容疑者を首謀者と断定、タリバン政権に身柄の引き渡しを要求した。タリバンは拒否し、米国は10月7日にカブールなどへ空爆を開始。タリバン政権は崩壊した。しかしタリバンは、米軍の誤爆などを背景に勢力を盛り返した。

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毎日新聞 2011年10月6日 東京朝刊



【ブログ内関連記事】
●余録:ビンラディン、10年後の死(毎日)ほか
http://sociologio.at.webry.info/201105/article_9.html
●「ビンラディン殺害「2つの疑問」とは?」(プリンストン発 新潮流アメリカ by 冷泉彰彦)
http://sociologio.at.webry.info/201105/article_18.html
●<ビンラディン容疑者殺害>残るいくつかの「謎」を検証 (毎日新聞)
http://sociologio.at.webry.info/201105/article_19.html
●焦点:ビンラディン容疑者の殺害、残される適法性の議論( ロイター)
http://sociologio.at.webry.info/201105/article_28.html
●死者22万人、支出186兆円に=アフガン・イラク戦争-米研究者グループ 【ワシントン時事】ほか
http://sociologio.at.webry.info/201107/article_21.html

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この記事へのコメント

ましこ
2011年10月08日 12:02
<アフガン>開戦10年 首都で反米・反政府デモ
毎日新聞 10月6日(木)20時29分配信

 【カブール杉尾直哉】米国主導のアフガニスタン戦争が始まって7日で10年。首都カブールでは6日、終わりの見えない戦争に抗議する反米・反政府デモがあった。参加した市民約500人のうち半数近くは女性。米軍の誤爆で犠牲になった子供らの遺体の写真を掲げ、「米国に死を!」「かいらいのカルザイ政権を倒せ!」などと叫びながら市内を練り歩いた。

 男性中心のアフガン社会で女性たちが表で発言するのはまれだ。東部クナール州から参加した女子学生のワクマさん(21)は、「10年間にわたる占領で、米軍は罪のないアフガン人を殺し続け、私の2歳のめいもロケット弾の誤爆で殺された。立ち上がらずにはいられなかった」と話した。ワクマさんを含め、多くの女性が武装勢力などからの身の危険を感じており、スカーフやサングラスで顔を隠していた。

 参加者は、自爆攻撃を続ける旧支配勢力タリバンや、武装勢力と関係があるとされるパキスタン政府も批判し、「真の独立と平和」を訴えた。

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